赤ちゃんは生後半年くらいで歯が生え始め、「歯が生えてきたということは、歯で噛んで栄養を摂る必要がある時期」と昔から考えられてきました。また、歯が生えてきたら咀嚼回数をできるだけ多くした方が、顎の筋肉が発達し歯並びも良くなって歯のために良いとされていますので、この時期に離乳食が始まります。
こうした人生の始まりである乳児期の変化を見ても明らかなように、歯の一番の役割は食物を咀嚼するということであることには異論の余地はなさそうです。
しかし、咀嚼は歯の機能の全てではありません。砂を嚙んでしまった時の違和感や、食物の硬さや軟らかさを感じるのは歯が単に物を噛むだけでなくセンサーの役割も果たしているからです。歯の根っ子の歯根膜に分布する歯根膜受容器から三叉神経を介して歯で噛んだ時の食物の繊細な情報が脳に伝わっています。
つまり、歯は神経を通じて脳とつながっており、そのため歯の一本一本が全身に影響を及ぼすことになります。例えば、食物をよく噛むと副交感神経刺激を受けた唾液腺から唾液が分泌されます。ちなみに、入れ歯やインプラントの歯でも食べ物を噛むことはできますが歯根膜の神経センサーの機能は失われてしまいます。人間は歳をとると老化現象として唾液分泌が減るとされていますが、その原因には単なる老化だけではなく、歯が失われることに伴う神経刺激の減弱も当然のことながら関連していると思われます。
歯は食物を噛むための単なる咀嚼器官ではなく、全身とのつながりを持つため、その不具合は自ずと全身に様々な影響を及ぼします。
例えば、欠けている歯があったり、噛み合わせ(咬合)に問題があったりすると顔面頭蓋骨につながる咀嚼筋群の異常緊張や不調和を引き起こします。そして、片方の傷んだ脚をかばって生活していると健側の脚に負担がかかってしまい、結果的に健側の脚にも不具合が生じるように、この咀嚼筋群の異常が顔面頭蓋骨を支える首から下の全身の筋肉や脊椎、骨盤などに様々な影響を及ぼします。その結果、脊椎や骨盤の歪みが生じて背部痛、腰痛などの整形外科的な症状を始め、時には便秘や下痢などの内科的症状も引き起こします。
また、嚙むという行為は一種のポンプ作用であり、咀嚼は脳循環に影響を及ぼすとされています。さらに、咀嚼は歯や顎を動かす単純な随意運動ではなく、脳において高度な統合機能が関与して成立する運動であるといわれています。つまり、よく噛むことが栄養面で有利な効果をもたらすだけではなく、咀嚼運動自体が脳に対して何らかの良い影響を及ぼすと考えられます。歯が抜けると、当然のことながら咀嚼に悪影響を及ぼします。歯を失う90%以上の原因は虫歯と歯周病です。全体では虫歯の方が多いですが中年以降で歯を失う最大の原因は歯周病です。つまり、虫歯や歯周病は咀嚼力の低下のみならず全身にも影響を与えるということになります。
このように、神経や骨格筋などを介して歯が全身に影響を及ぼしますが、それ以外にも免疫系を介した歯の全身への影響が知られています。すなわちそれが口腔病巣感染です。口腔病巣感染とは一般には齲歯(虫歯)や歯周病が原因となり細菌毒素や免疫系を介した炎症物質の影響により歯とは離れた全身に病気(二次疾患)が生じることをします。
特に近年では歯周病の炎症性物質(IL-1やTNFなど)を介した全身への影響が注目されています。中でも、動脈硬化、骨粗鬆症、早産・低体重出産、糖尿病に関しては多くの知見か集積されつつあります。現在、「口腔病巣感染」という言葉自体はあまり用いられませんが本態は口腔病巣感染そのものと言えます。
私たち日本病巣疾患研究会(JFIR)では齲歯ならびに歯周病の口腔病巣感染のみでなく、前述した咬合の問題や歯科治療に用いた金属が原因で生じる不具合など、口腔内の問題が原因となり生じる全身の病気・病態を全て包括して「口腔病巣疾患」と捉え、将来わが国に医科・歯科が連携し、協働して患者の治療に臨むことが当たり前になる日が到来することを目指しています(図1)。
JFIRでは歯科医のみでなく医師そして一般の方々も口腔の不具合が全身に与える影響について知ることは今後の医療の発展や疾病予防のために大変重要であると考えています。そして、私たち歯科医は自らが行っている日常の治療が咀嚼機能のみでなく全身にも多大な影響を与える可能性があることを十分に認識しなくてはなりません。
参考文献
前述しましたが、不正咬合や狭窄歯列に由来する様々な問題(アレルギー、体の歪みによる腰痛、頭痛、無呼吸等々)も私たちは口腔病巣疾患と捉えています。
歯列がガタガタや受け口、出っ歯であれば歯科矯正治療を受けることになります。
歯科矯正の目的は①「審美的に歯を奇麗に並べる」だけではありません。②「虫歯や歯周病予防」③「顎運動、口腔周囲の機能的改善(咀嚼、発音、嚥下)」も実は重要な目的です。そして、さらに注目すべき点として矯正治療によって、全身の機能改善につながる場合も少なくありません。
例えば
①耳鼻科領域の変化、つまり鼻呼吸となり、アレルギー疾患が少なくなった。
②肩こり、腰痛が改善した。
③偏頭痛が少なくなった。
等々、様々な全身への好影響がもたらされることがあります。
ここでは実際の症例について解説します。
口呼吸の習慣があり病気がちで典型的な狭窄歯列の8歳男子です。
歯科矯正治療後は鼻呼吸となり健康でがっしりした体格になりました。
治療前 | 早期治療後 |
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16歳女性 骨格的下顎後退症例(上の歯が出ている)。
典型的な狭窄歯列。低位舌。口呼吸。口唇閉鎖不全がありました。
口呼吸のため風邪を引きやすく、しかも肺炎など重症化を繰り返していました。
歯科矯正治療により、口腔容積の増加(特に下顎)が得られました。
その結果、低位舌が改善し、口呼吸から鼻呼吸になりました。
口唇も閉じやすくなり、顔貌の歪みも改善しました。
風邪は引きにくくなり、引いても軽症で治るようになりました。
治療前 | 治療後 |
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32歳女性 骨格的下顎前突症(受け口)と上顎の典型的な狭窄歯列を認める。
そのため低位舌で口呼吸の習慣がある。
片頭痛、眼精疲労、肩凝り 等の自覚症状を伴いました。
咬合治癒後には、片頭痛、眼精疲労、肩凝り等は改善しました。
治療前 | 治療後 |
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32歳男性。治療前は上下顎狭窄歯列のため低位舌で口呼吸の習慣を認めました。
また、顎関節の違和感、花粉症、鼻づまり、肩凝り等の自覚症状がありました。
矯正治療後は舌低位が改善。花粉症、鼻づまり、肩凝り等も改善しました。
治療前 | 治療後 |
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これら、いずれの症例についても非抜歯で対応し、歯列のみに囚われることなく、口腔容積の拡大(舌が上げやすく、鼻呼吸とする為)を目標としました。
歯科矯正をレントゲンや数値上で評価することは基本中の基本です。しかし、口腔から全身を俯瞰し、歯科矯正が当該患者の将来の健康を守る可能性を秘めていることも忘れてはいけない事実です。
次に、虫歯由来の口腔病巣感染の歴史についてもう少し詳しく解説します。
先ず、虫歯と全身病に関して、イギリスの医師ハンターが「病気に罹った歯はそこから排泄される細菌が血液にのって、遠く離れた部位に二次的に病変(病気)を生じさせる」(口腔敗血症)という概念を1911年に英国のLancet誌に発表し、「不潔な歯科治療が全身的な病気を作る」と警鐘を鳴らしました。この説は欧米で一時期は熱狂的に支持され、抜歯が無批判にどんどん行われたとされています。ちなみに、虫歯や歯周病が原因で全身に疾患が生じることを「口腔病巣感染」と呼びます。
さらに今を遡ること100年前、医学的な論争のなかで、長く封印されることとなった口腔と全身の健康の関係を示す歴史的な発見がありました。
アメリカの歯科医師ウエストン・A・プライス(1870~1948)は、一人息子を、虫歯が原因となった心臓病で失い、虫歯と心臓病の因果関係の立証のため、1914年から生涯をかけた研究を始めました。
ウサギを使った実験によって、有病者(心臓病、リウマチ等々)から抜歯した感染した歯をウサギの皮下に移植すると、そのウサギに同じ病気が再現することを発見し、1923年に「DENTAL INFECTIONS」上下2巻(1,174ページ)を発表します。
プライスの研究は詳細を極め、各種病原菌における違いや、様々な根管充填材(注1)による殺菌効果などの検証が行われました。プライスは歯の神経を取った歯が病巣になる疾患として、循環器系の17に及ぶ疾患(心内膜炎、狭心症、動脈硬化症等々)を紹介しています。1986年になってMayo Clinic Health Letterに感染性心内膜炎の主たる原因菌は緑色レンサ球菌であることが掲載されました。この菌はプライスの研究において、感染した歯から最も多く検出された菌と同属で、抜歯によって循環器系の疾患がほぼ完治に至った多くの症例を示していました。
(注1)根管充填材とは、歯の神経を取った空隙に無菌的に緊密に封鎖するために用いる歯科材料。ガッタパーチャという天然ゴム(樹脂)性のものが最も使用されている。
歯は図2の様な構造です。象牙質は歯のほとんどを占めるもので、直径0.8~2.2㎛の象牙細管でできています。なんと、小さな前歯の象牙細管をつなぎ合わせると3~5㎞もの長さになります(図3)。歯の神経の形はとても複雑で、100%除去することは不可能であり、わずかに残った神経は細菌増殖のもとになります。これらが後に象牙細管内で増殖し感染源となる可能性があるのです(図4)。
その感染源の歯がなぜ全身疾患を引き起こすのかというと、感染の原因となった細菌や毒素が血液を介して遠隔臓器に病態を引き起こすという説。原病巣に侵入したウイルスや細菌が免疫システムを刺激し、それを受け暴走したリンパ球が血液を介して全身をめぐり自分自身を攻撃して病態を引き起こす。との説があります。
図3象牙細管の様子(1210)ジョージ・E・マイニー著 片山恒夫監修・恒志会訳.「虫歯から始まる全身の病気」より転載
図4象牙細管内に存在する細菌(B). (5500). ジョージ・E・マイニー著 片山恒夫監修・恒志会訳.「虫歯から始まる全身の病気」より転載
前述したプライスが研究に用いたものは神経のない感染した歯で、神経が残っていれば簡単には感染源にはなりません。虫歯が原因となる病巣感染を防ぐという見地からこの点は重要です。
2002年10月ウィーンで行われたFDI(国際歯科連盟)においてMinimal Intervention(う蝕管理における最小の介入)に関する声明がなされました。現在の歯科医療においてはこれらを受け、できるだけ歯や神経を保存する考えが定着しつつあります。
歯科受診の際にはこれらの事をふまえ、自分の歯には自分で責任を持ち定期的に歯科を受診していただきたいと思います。
東京歯科大学名誉教授 奥田克爾氏は ~「歯性病巣感染」温故知新~ の中で、以下のようにプライスについて言及しています。
オーラル・メディスンの先駆者として、歯科医師ウエストン・プライス(Weston Price)の「口腔慢性感染症は重篤な疾患の引き金になっている」ことについて研究した業績は、燦然と輝いている。プライスは、一人息子を齲蝕が原因となった心臓病で失ったため、齲蝕が心臓病の引き金となることの実証などに生涯を捧げた。1914年からアメリカの著名な医師達との共同研究をスタートし、現在では到底考えられない4,000羽ものウサギを使った実験で、齲蝕の全身疾患への関与を証明した。そして1923年に、その研究成果をDENTAL INFECTIONSの1巻Oral and Systemicと2巻Degenerative Diseasesにおいて、1,174ページに纏めて発表している。
~中略~
歯根尖病巣などがさまざまな全身疾患の引き金になっていることを実証したプライスのDENTAL INFECTIONは、口腔慢性感染症を駆逐する歯科医師の役割を、新たな視点から見つめている。歯科医師は歯を保存し、その患者の健康を維持するためのプロセスで、病巣感染による健康被害をもたらすことのないように努力しなければならないとの基本的概念を確立した歯科医師こそプライスであったといえる。
メタボリックシンドロームが叫ばれだしたのは、ごく最近である。しかし、プライスは100年前すでに、歯科疾患と、糖尿病など特定のメタボリックシンドロームとの密接な関係を、「歯科感染症」の中でDental Infections and Carbohydrate Metabolismとして記載していた。更に、彼は1939年Nutrition and Physical Degenerationも残している。彼は、十数年にわたって北極圏、アフリカ大陸、南アメリカ大陸などの14種族の食生活などのライフスタイルと口腔の実態を調査して、オーラルヘルスからの積極的な健康増進に高邁な洞察を行って集大成し、歯科界は予防に取り組むべきであるというスタンスを発信した。
1993年、アメリカのジョージ・E・マイニー(1915~2008)はプライスの25年に亘る徹底した研究を世に知らしめるため「ROOT COVER UP」を出版。
日本においては片山恒夫氏の執念ともいえる努力により2008年「虫歯から始まる全身の病気」(発行 特定非営利活動法人 恒志会)として翻訳出版されました。
その序文(一部)を以下に掲載し本節を終わります。
「たった1つの病気-虫歯-から、いかに多種多様な病気が起こり、それらがどれほどまで根管処置によって悪化するものなのか、それらを知っている人がほとんどいないというのは悲しいことだ。今や、歯科医や医師はこうした病気の予防に自らが果たす役割について考えを直さなければならない。患者も歯科医も、歯の穴などとるに足らないものと考えるようになってきた。
虫歯は単なる局所的な問題ではなく、また決して小さな問題でもなく、それよりも身体のあらゆる部分にも関わる全身的な疾患なのだということをそろそろ誰もが理解すべきだろう。
~中略~
私は、歯科医や医師が過去の業績からもっと学んでほしいと願う。変わりばえしない方法を推し進め、「まだまだ研究が必要」とか、「病巣感染説を裏付ける証拠がない」などというセリフの陰に隠れてしまっていては、数十億ドルの損失はもちろんのこと、無数の人の健康や人生を台無しにしている。さらに研究を重ねることは常に望ましいと言えるが、すでに成し遂げられた発見を無視してよいということにはならない。
もちろん、口腔病巣感染説で全てが説明できるわけでもなく、歯に問題があっても全身的には健康な人々が多いのも事実です。けれど私が拝見しているIgA腎症、リウマチ、糖尿病などの患者さんの多くが口腔内に重大な問題を抱えています。
これらの方々において口腔内が何も問題の無い状態であったなら、大きな疾患にならずに済んだケースもあるのでは、と日頃私は感じています。
一人の患者を前にして、治療の効果が予想に反してはかばかしくない場合、医科の先生方に口腔病巣感染を思い出していただきたいというのが私たちの切なる思いです。
相田能輝
松川公洋
参考文献
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